2023年3月アーカイブ

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船橋の天沼公園は、JR船橋駅の北口を出て徒歩数分のところにある。今日(3月31日)はその天沼公園に花見に出かけて、思いがけない体験をした。桜を楽しんだのはともかく、大勢の鳩と心温まる交流をすることができたのだ。小生が天沼公園に行く気になったのは、家人にそそのかされたためである。家人が言うには、折角の花見の季節なんだから、家に閉じこもってないで出かけなさいよ、海老川沿いの桜がきれいだから、そこへ行ってみなさいよ。こういうので小生は、海老川までは遠いなと言ったところ、じゃあ天沼公園にいったらどうなの、あそこにもたしか桜があるはずよ。こう言われて小生は、先日長津川の桜を見たばかりだったが、場所を変えて花見を楽しむのもよかろうと思い、出かけた次第だった。

トランスフォビアとは、トランスジェンダーに憎悪を向けることを意味する言葉だ。その言葉によって激しい批判を浴びている者がいる。「ハリー・ポッター」シリーズの作者として知られるJ.K.ローリングだ。彼女はこの数年、トランスジェンダーへの偏見を煽ってきたとして、強い批判を浴びてきたのだったが、この度トランスジェンダーをテーマにした動画「The Witch Trials of J.K. Rowling」をポドキャストに投稿したことで、声高な批判が沸き起こった。

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クリント・イーストウッドの2008年の映画「グラン・トリノ(Gran Torino)」は、いわゆるラスト・ベルト地帯を舞台にして、頑固な老人と新来の東洋人家族との触れ合いを描いた作品。イーストウッド演じる頑固な老人が、隣人の子供らが苦境に苦しんでいることに同情し、命をかけて守ろうとするところを描く。その老人はたびたび吐血に見舞われ、死を覚悟していた。どうせ死ぬなら意味のある死を死にたい。そんな切実さが伝わってくる映画である。

東芝が、好意的な相手に事実上身売りして、上場もやめることにしたそうだ。その理由は、いわゆる物言う株主の介入を排除して、自律的な企業運営をしたいということらしい。企業は株主だけのためにあるのではなく、多くの社会的な責任を負っている。その責任を果たすためにも、「物言う株主」の強欲な要求は排除せねばならぬということのようである。そういえば体裁はいいが、実態はそんなものではないだろう。

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先日元米国大統領ドナルド・トランプが、3月22日にニューヨークの検察官に逮捕されるといって、支持者に反撃するようにと、自分の運営するソーシャルネットワーキングサービス「トルース・ソーシャル」に投稿したことで、ストーミー・ダニエルスとの間におこっていた数年来のスキャンダルに、あらためて脚光があたった。これは周知のことなので、ここでは詳しく触れないが、何といっても、一介のポルノ女優だった女性が、米国の大統領を苦境に追い込んだというので、彼女の勇気をたたえる言説があちこちに出始めている。これまで彼女は、罵倒されることはあっても、褒められることはなかった。それは、アメリカの男性優位の価値観を、彼女が覆しつつあるという画期的な事態の重みを、さすがに頑迷なアメリカのジャーナリズムも無視できなくなったということだろう。

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「コレラ流行の記憶(Souvenirs du Choléra-Morbus)」と題されたこの石版画は、1840年に出版されたフランソワ・ファーブルの書物「絵入り医学のネメシス」の挿絵として制作されたもの。原文は、1832年にフランスで起きたコレラのパンデミックを解説していた。

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クリント・イーストウッドの2008年の映画「チェンジリング(Changeling)」は、失踪した息子のかわりに他の子供を、警察によって息子として押し付けられた母親の戦いをテーマにしたもの。警察の横暴ぶりと、それに立ち向かって自由と正義を実現しようとするキリスト教社会の行動ぶりなど、いかにもアメリカらしいテーマである。この映画を見ると、クリント・イーストウッドが敬虔なキリスト教徒であることが伝わってくる。イーストウッドは、日本では右翼的な印象を持たれているが、この映画を見る限り、右翼というよりは、まっとうなキリスト教徒(穏健な保守派)とう印象を受ける。

富永仲基と安藤昌益を、加藤周一は日本の思想の歴史において極めてユニークな存在だったと評価している。この二人はともに、徳川時代の前期、18世紀の前半に活躍した。安藤昌益のほうは明治時代になって始めて広く紹介されるようになったのであり、それ以前には無名に近かった。だから同時代はともかく、徳川時代を通じて周囲に影響を及ぼすことはなかった。それに比べて富永仲基のほうは、本居宣長や平田篤胤によって高く評価されたものの、これも影響は小範囲にとどまった。しかし、そうした影響力の強弱は別にして、かれらのようなラジカルな思想家が生まれたということ自体が、日本の思想史にとって画期的なことだったと加藤は言うのである。

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「時計の安全鎖売り(Vendeurs de chaîne de sécurité de montre)」と題するこの石版画は、「パリのボヘミアン」シリーズのひとつ。ブルジョワ紳士に時計の安全鎖を売りつけるスリたちを描いている。「ロベール・マケール」シリーズではないが、スリの中には、マケールとベルトランを思わせる人物像が登場している。

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今年は桜が咲くのが早かった。東京では3月23日には満開になったというし、小生の地元船橋でも24日ごろに八分咲きの状態になった。ところが24日から三日間雨天続きで花見というわけにはいかなかった。それがこの日(27日)には天気も回復し、桜もほぼ満開になったので、小生は例年通りすし屋に立ち寄ってから近所の桜の名所長津川公園に出かけた次第だ。

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クリント・イーストウッドの2004年の映画「ミリオンダラー・ベイビー(Million Dollar Baby)」は、プロボクサーを目指す貧しい女性が、実力と運で人気ボクサーになりあがった末に、試合中に被った怪我がもとで廃人になる過程を描く。スポーツ根性ものの要素に、ヒューマンドラマの味を加えたような作品だ。

西洋的な見方と比較して、もっとも東洋的な見方といえるものは、自由についての見方だと大拙はいう。自由というと、西洋的な見方では、消極的な意味合いしかない。英語で自由をフリーダムというが、フリーダムとは「何ものかからの自由」である。たとえば、束縛からの自由とか、誘惑からの自由といった具合に。つまり西洋的な自由は、つねに逃れるべきなにものかを前提している。それに対して東洋的な見方では、自由は消極的なものではなく、積極的なものである。何ものかからの自由というと相対的な意味合いになるが、東洋的な見方では、自由はそれ自体としてある。つまり絶対的な意味合いをもっている。

メルロ=ポンティのコギトについての議論は、とりあえずデカルトのコギトへの批判から始まる。デカルトは、思惟の働きとしてのコギトと、その働きの主体としての我を区別して、あの有名なテーゼ「我思うゆえに我あり」を導き出した。こうした考えにメルロ=ポンティは異議を唱える。デカルトにおいては、思惟の対象と思惟の主体とは区別されるのであるが、またそれゆえにこそ、「我思うゆえに我あり」という言葉に意味があることになるのだが、メルロ=ポンティは、そうした考え方をしない。思惟の対象とそれを思惟していること(思惟のはたらきとその主体)とは区別されない。思惟の対象と思惟のはたらきは同一の「存在様相」を持つのであって、もともと一体のものなのである。それが別々のものとして区別されるのは、間違った反省のためである、そうメルロ=ポンティはいうのだ。

四方山話の会の幹事会を兼ねた例の旅行同人の宴会を久しぶりに催した。場所は赤坂の天ぷら屋初穂。地下鉄の駅の一番出口を出て、一ツ木通りをやや進んだところにある。小雨の降る中を五時半に赴いた。他の三人はすでに席についていて、生ビールを飲んでいる。小生も生ビールを頼んで乾杯に加わった。その席上、さきほど地下鉄の車内で目撃したことを披露した。小生と同年齢と思しき男が、空いた席に座ろうとして脚がもつれ、隣の座席に座っていた母子の上に覆いかぶさったのだが、あわてて立とうとしたところ、更に脚がもつれて床に倒れてしまった。様子が尋常ではない。脳内になにか起ったかと思わせるようなありさまだ。周りにいた若い人が介助をして、次の駅で下ろしたので、老人である小生はとくに手出しをすることはなかった。ただ、自分もそうなったら困るな、と思ったところだった。そう話すと、他の三人もなにやら同情できるものを感じたように見えた。

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ドーミエは政治的な風刺版画のほかに、同時代のパリの風俗をテーマにした版画も多く作った。とくに、「カリカチュール」が発行できなくなってからは、そうした風俗版画を多作したが、それらにもやはり、政治的な視線を感じさせるものがある。

ゴーゴリは「死せる魂」を三部構成の長大な小説として構想していた。その構想は、第一部(現存する「死せる魂」)の最後の章で示されている。この章は、小説の主人公チチコフが従僕を率いて馬車を走らすところで終わっているのだが、かれらの旅の前には、さらに「膨大な二編」分の話が待っていると書いているのである。それがどんな内容になるのか、については語っていない。だがゴーゴリはこの三部作の小説全体を、ダンテの「神曲」にならって構想していたことがわかっている。ダンテの「神曲」は、第一部が「地獄編」、第二部が「煉獄編」、第三部が「天国編」という構成だが、それをモデルにしていたとすれば、「死せる魂」の第一部は「地獄編」に相当することになり、そのあとに「煉獄編」、「天国編」に相当するものが続くことになる。

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クリント・イーストウッドの1995年の映画「マディソン郡の橋(The Bridges of Madison County)」は、ロバート・ウォーラーの同名の小説を映画化したもの。原作は1992年に刊行されるや爆発的なヒットを記録し、日本でも早速翻訳されて大評判となった。小生もその評判につられて読んだ一人だったが、読んでの印象はあまりはかばかしくなかった。中年男女の不倫の恋を描いたこの小説のどこが面白いのか。発想が子供じみているし、官能的なところもない、などと思ったものだ。

岸田首相がウクライナを訪問し、対ロ戦争に関してウクライナを支援する意向を示した。これはウクライナを利用した西側の対ロ代理戦争に日本も参戦するということを、事実上意味する。これは日本にとってよいことなのか、あるいは都合の悪いことなのか、判断が分かれるところだろう。

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この作品も「ロベール・マケール」シリーズの一つ。ここではロベール・マケールは慈善家に扮している。慈善家というのは皮肉で、健康増進剤として浣腸を売りつけ、大儲けしていた商人をモチーフにしたもの。その商人は、自分のやっていることはただの商売ではなく、慈善行為だと開き直っていた。

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WBCにおける日本チームの優勝を素直に喜びたい。決勝戦の行われたこの日、小生は朝七時前に起きて、荊婦の出勤を見送り、洗面、朝食を済ませたあとテレビの画面に向かった。八時過ぎに始まった試合は、最終回まで緊迫した展開で、じつに見ごたえのあるものだった。決勝戦の相手アメリカチームは、今年は大リーグの実力プレーヤーを擁し、史上最強のチームといってよかった、そのアメリカチームと日本チームは互角に戦ったうえ、ついには優勝したのだ。その瞬間、小生は思わず鬨の声を上げたのだった。

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クリント・イーストウッドの1992年の映画「許されざる者(Unforgiven)」は、賞金稼ぎをテーマにした西部劇である。賞金稼ぎというのは、一時期の西部劇ブームで大きな存在感を示していた。こういう輩が開拓時代のアメリカで活躍したのは、その時代のアメリカ社会の治安の悪さのためである。犯罪の被害者となった者が、司法に期待できないために、自力で正義を実現しようとする。その正義の実現のために手を貸すのが賞金稼ぎである。したがって賞金稼ぎには一定の存在理由が認められ、社会的に排斥されることは少なかったらしい。

徳川時代を通じて日本文学の中心的担い手は武士であり、その武士の社会から文人文化というべきものが育っていった。文人は、かならずしも武士のみにとどまらず、じっさい徳川時代の半ば以降は、庶民層の出身者が多く参加したのであるが、そのエートスには武士の気質が大きくかかわっていたといえる。武士のエートスというのは、儒学とりわけ宋学の精神を中核とするものであるが、そうした精神を庶民層が受け入れていくことで、町人の間から文人文化の担い手が出てきたり、石田梅岩の心学が育ってきたりしたわけである。

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「聖書商人ロベール・マケール(Robert-Macaire Md de bibles)」と題されたこの石版画は、新聞王ジラルダンを風刺した作品。ジラルダンはラ・プレスほか有力な新聞を発行し、それに広告の機能を持たせることで、巨万の富を得た。そのやり方は、誇大広告で人々の購買意欲をあおるというもので、それに対してシャリヴァリによるフィリポンとドーミエは強く反発した。

国際刑事裁判所なるものが、ロシアの大統領プーチンを、戦争犯罪容疑で国際指名手配したそうだ。小生も、プーチンは裁かれるに値することをやっていると考えるので、かれを訴追する動きに異議はない。だが、いまの国際情勢を踏まえれば、この訴追には象徴的な意味しかなく、プーチンが現実に裁かれる可能性はほとんどないと言われている。それでもプーチンを裁こうとするのは、世界の指導者に対する警告の意味合いがあるからだという。プーチンと同じようなことをすれば、誰でも、たとえアメリカ合衆国の大統領であっても、訴追される危険があることを知らしめることで、抑制的な効果を期待するというのである。

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クリント・イーストウッドの1988年の映画「バード(Bird)」は、伝説的なジャズ・ミュージシャン、チャーリー・パーカーの伝記映画である。伝記といっても、パーカーの生涯を満遍なくカバーしているわけではない、パーカーをめぐるいくつかのエピソードをコラージュ風につなぎあわせたものである。

「東洋的な見方」は、鈴木大拙の最後の著作であり、いわば遺書みたいなものだ。かれはこれを、1963年93歳の時に出版した。いま岩波文庫から出ている「東洋的な見方」は、大拙の死後に、西田幾多郎の研究者としても知られる上田閑照が編集しなおしたものである。原作に収められた14篇の文章のほか、同時期に書かれた文章を合わせ、34篇からなる論文集としたものである。

大相撲の春場所が興行中だが、貴景勝が休場したことで、横綱・大関がひとりもいなくなった。こんな事態は、昭和以降初めてのことだそうだ。異常というほかはないが、それ以上に、横綱・大関不在では、全く盛り上がらないというべきだ。大相撲ファンは、残念を通り越して、あきれ返っていることだろう。

東京の明治神宮再開発に伴い、大量の樹木が伐採されることがわかって、大騒ぎになっている。この地域は、東京の中でも景観のすぐれたところで、都心のオアシスとして、都民はもとより東京を訪れる人々に親しまれてきた。それを一気に伐採して、高層ビルをたてようというのだから、人々が反発するのは無理もない。たとえていえば、パリのエッフェル塔をぶっ壊して、安っぽい高層ビルを建てるようなものだ。

デカルトのコギトから出発した西洋近代哲学にとって、他者の問題は解きがたいアポリアだった。意識によってすべてを基礎づけようとすれば、私の意識以外のものはすべて対象であって、他者もまた対象である限り、机や椅子となんら変わりはない。私は私が意識であることを確実に知るのであるが、机に意識が宿っているとは思わないし、それと同じように、他者にも意識が宿っているとは明言できない。意識にこだわる限り、意識の担い手としての他者は、わたしにとっては明瞭なものではないのだ。無論私は、他者が自分と似た存在であると思う限りにおいて、自分が持っている意識を他者もまたもっていると推測することはできる。だが、それはあくまでも推測であって、明証な事実の認識ではない。ともかく意識から出発する限り、他者の問題は解きがたい難問なのである。

六年ぶりのWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が盛り上がっている。一次リーグの会場の一つが日本の東京ドームだったこと、そして日本チームが非常な活躍を見せていることが、その要因だ。小生もまた、その熱気に促されるようにして、準々決勝の対イタリア戦を、テレビ中継で見た次第だ。ご案内のように、日本チームは圧倒的な強さを見せてくれ、また、大谷やダルビッシュ、そして他の選手のすばらしいプレーを堪能することができた。

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1834年4月のリヨンにおける暴動に引き続き、1835年7月にはルイ・フィリップ暗殺未遂事件が起きる。これらの事件を深刻に受け取った政権は、強圧的な弾圧政策に踏み切る。その最たるものは、表現出版の自由を制限するものだった。内務大臣ティエールの主導のもとで、政府に批判的なメディアがことごとく廃刊に追い込まれた。ドーミエがかかわっていた「カリカチュール」も、1835年8月に廃刊を余儀なくされた。

ゴーゴリの短編小説「外套」を評して、ドストエフスキーが「われわれは皆ゴーゴリの『外套』から生まれたのだ!」といったことはよく知られている。ドストエフスキーがそういった理由は、ゴーゴリのこの小説が、かれを含めたロシアの作家たちの模範となったということだ。それほどこの小説は、ゴーゴリ以後のロシア文学に決定的な影響を与えたのである。

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山田洋次の1963年の映画「下町の太陽」は、山田の駆け出し時代の作品で、かれにとっては二作目の劇場用長編映画だった。それに倍賞千恵子が主演した。この若い女性の青春を描いた映画は、同名の主題歌と共に大ヒットし、山田にとっても賠償にとっても出世作となった。以後かれらは、「寅さんシリーズ」をはじめ、山田のほぼすべての作品で協力し合った。監督と俳優がこれほど親密な関係を築いたのは、世界中を探しても、他に例がないだろう。

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「ラファイエットはくたばった、ざまあみろ(Lafayette!...Attrappe, Mon Vieux)」と出されたこの作品は、英雄ラファイエットの葬儀をテーマにしたもの。とはいっても、ラファイエットの葬儀の様子は遠景として描かれ、全面いっぱいにルイ・フィリップが描かれている。

奄美大島から与那国島にかけての南西諸島に、長距離ミサイル拠点が整備され、対中戦争に備えて軍事力の強化が進められている。この島々は、中国が独自に設けている防衛線上に位置しているが、日米同盟にとっては中国攻撃の重要拠点となるものだ。日本はいままで空母を持たなかったが、これら島々が空母と同様の機能を果たせることとなる。しかも沈まない空母、不沈空母だ。

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2022年の日本映画「PLAN 75(早坂千絵監督)」は、老人問題をテーマにした作品。社会に存在する意味がなく、しかも自身死んでもよいと考えている老人を、国が積極的にかかわり、死なせてやる政策をとったことで、多くの無用な老人が始末されるというような内容の作品である。国家が権力的に国民を始末する(殺す)というのは、究極的なディストピアだと思うが、今の日本ならそれがおきかねないという恐怖を感じさせるような映画である。実際今の日本は、無用な年寄りは早く死ね、と言ってはばからぬ人間でも総理大臣が務まるような国柄である。この映画の中のことが、絶対に起きないとはいえない。

新井白石と荻生徂徠はほぼ同時代人であって、政権の中枢と近い関係をもったことでも共通するので、とかく比較されやすい。この二人のうち、丸山真男は徂徠を高く評価し、加藤周一は白石を取り上げることが多かった。といっても、白石を徂徠の上に置くわけではない。加藤は白石の実証的な姿勢を高く評価するのであるが、徂徠にもそうした実証的な傾向はある。学問としてのレベルにおいては、この二人はおそらく優劣つけがたいというのが加藤の本音だったと思われる。加藤が白石のほうにより強いこだわりを見せるのは、白石の思想とか業績といったことよりも、その人間性にひかれたからではないか。人間性という点では、徂徠には非常に意固地なところがある(伊藤仁斎に対する意趣返しはその典型である)。

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「トランスノナン街(Rue Transnonain)」と題されたこの石版画は、1834年4月にリヨンを舞台にして起こった労働者の運動への大弾圧を告発したもの。この運動は、ルイ・フィリップへの批判的グループ「人間の諸権利協会」が、リヨンの絹織物職工組合を組織して行ったもので、8000人以上の労働者が参加した。それに対して、内務大臣ティエールが軍隊まで動員して弾圧にとりかかり、労働者側に192人、軍隊側にも129人の死者をだすなど、内乱状態といってよいような状況を呈した。

大江健三郎が、老衰で、死んだ。五・六年ほど前まで、読書誌「図書」にエッセーのようなものを連載していたのが、近年は文業からほとんど遠ざかっているように見えたので、老衰が進んでいるせいだろうかと思ったりしたものだが、そのとおりだったわけだ。だが、八十八歳という年齢は、老衰死というにはなじまないのではないか。たとえば鈴木大拙は、九十歳を超えてもなお、旺盛な執筆意欲をもっていたし、親鸞聖人も、あの時代に生きながら、八十代の半ばまで知的活動をやめなかったものだ。それを思えば、八十八歳で死んだ大江は、死に急ぎすぎたのではないか。

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深田晃司の2019年の映画「よこがお」は、日本社会の陰湿ないじめ体質をテーマにした作品。甥が少女誘拐事件をおこしたために、事件とはなにも関係のない女性が、社会からすさまじいバッシングをうけ、居所を失うさまを描く。深田晃司の映画にはわかりにくいところが多かったのだが、この映画はわかりやすい。しかしそのわかりやすさが、テーマ設定の性格からして、非常な気味悪さを感じさせる。

真宗を含めた浄土宗の本質的な特徴は他力の信心ということにある。他力の信心の具体的な内容は阿弥陀如来への信仰というかたちをとり、その阿弥陀如来には一神教的な人格神の要素が強くあるから、他力の信心は人格神崇拝というべきところを持っている。他の大乗仏教各派は、やはり釈迦という人格を信仰するのであるが、人格としての釈迦自身よりも、釈迦が体現している真理への信仰という形をとっている。その真理は法身と呼ばれるので、ある意味抽象的なものへの信仰である。それに対して浄土宗は、人格としての阿弥陀を信仰し、しかもその信仰には自力の要素は一切ない。他の大乗仏教には、日蓮宗も含めて、修行などの自力の要素が残っているのに対して、浄土宗は徹底して他力の信心を追及しているのである。

小泉純一郎元首相は、福島原発事故以来原発ゼロを叫んできたが、最近はその声が途絶えがちのように見えた。ところがこのたび、岸田政権が原発回帰の姿勢を露骨に示したことに反応して、雑誌「世界」のインタビューに応じた。「世界」はずっと一貫して原発に批判的なスタンスをとってきたので、岸田政権の原発回帰に危機感を覚え、小泉純一郎と助っ人と頼んで、引っ張り出したのだろう。

空間についてのメルロ=ポンティの考察は、「知覚の現象学」の根本的な問題意識をもっとも尖鋭的に感じさせるものである。その問題意識とは、知覚についての経験論的な考えと主知主義との二項対立を克服して、その両者を包み込むような第三の視点を求めようとするものだった。その二項対立は、空間にあっては、客観的な空間と主観的な空間の対立として現れる。客観的な空間とは、私の意識とは別に、対象的な世界そのものがそれ自体空間の性質を内在していると捉えられたものであり、一方主観的な空間とは、カントに典型的なように、主観によって構成されたものである。客観的空間は事物そのものの性質であり、主観的空間は意識によって構成されたものである。その点では、アプリオリな形式といってよい。

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深田晃司の2016年の映画「淵に立つ」は、なんともいいようのない不思議な映画である。一応、サスペンス仕立てになっていて、繰り返される暴力の意味を考えさせるような意図が感じられるのだが、それにしては、しまりというか、一定の結末感がない。暴力はなぜふるわれたか、その理由が明らかにならないまま、映画は中途半端なエンディングを迎えるのだ。

「検察官」はゴーゴリの代表的な戯曲であり、世界文学史の上で独特の存在感を誇る作品だ。この戯曲は発表早々すさまじい反響を呼び、そのためゴーゴリはロシアにいられなくなり、長きにわたる外国生活を余儀なくされたのであった。とはいえ、官憲による弾圧を嫌ったわけではない。この戯曲は、少数の友人の前で朗読されたあと、一般公開に先立ってニコライ皇帝の前で演じられた。するとニコライ皇帝は腹をかかえて笑ったというし、プーシキンも太鼓判を押してくれた。この戯曲が書かれるにあたっては、プーシキンも一役かったいたのであるが、その出来栄えはプーシキンの予想を超えるものであったのである。

雑誌「世界」の最新号(2023年4月号)に、「またも提案?入管法改定」と題した座談会の筆記が掲載されている。今国会に提出された入管法改定案をめぐるものである。イラストレーターの金井真紀、弁護士の児玉晃一、作家の木村友祐が参加している。いづれも何らかの形で難民問題と入管行政にかかわっているということらしい。この三人の口火を切って金井が、「二年前の2021年、多くの市民やメディアが抗議してようやく廃案になったのに、何食わぬ顔をして同じ改定案をまた出してくるとは、ふざけるなという感じですね」と言っている。

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ドーミエは、ルイ・フィリップの下で権力の座に就いた人間たちを、痛快なタッチで風刺した石版画を多く作った。「立法府の腹(Le Ventre législatif)」と題されたこの作品は、そうした風刺的人物画の集大成といわれるものである。

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「過去・現在・未来(Le passé. Le présent. L'avenir)」と題されたこの石版画は、ルイ・フィリップの顔を皮肉っぽく描いたものだ。ルイ・フィリップの顔は、下膨れなところが洋梨を想起させたので、人々はかれを「洋梨」とあだ名した。この絵を見ると、たしかにルイ・フィリップは洋梨が人間の真似をしているように見える。

総務省が作成したという文書(いわゆる放送法文書)をめぐって大きな騒ぎになっている。この文書は、メディアの報道姿勢をめぐって自民党政権が圧力をかけた経緯をまとめたものらしいが、当初はそれを怪文書だとかいって否定していた政治家が、総務省自体がそれが公文書であることを認めるや、一転して「捏造」だと言い出した。もし捏造でなかったら議員をやめるとまで言い切ったので、世間ではこれを面白がってはやしたてる始末である。

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深田晃司の2015年の映画「さようなら」は、近未来の日本を舞台に、原子力で汚染された日本から人々が海外非難するという設定の作品だ。原子力による汚染は原発の爆発がもたらしたということになっている。おそらく福島原発事故を意識しているのであろう。だが、その程度の原発事故で、日本人の多くが海外避難するまでに追い込まれるというのは、どう考えても不自然であるから、この映画はいささか滑稽さをまぬがれない。

元禄時代は町人が興隆した時代である。町人というのは、徳川時代の身分秩序を前提とした言葉で、歴史的な普遍性を持っているわけではない。普遍性を感じさせる代替語があるとすれば、それは庶民とか大衆という言葉だろう。その庶民ないし大衆が、徳川時代前半の元禄時代になって始めて日本文化に大きな役割を果たすようになったといえる。その元禄時代の文学を代表する人物として加藤周一は、西鶴・芭蕉・近松をあげる。

徴用工問題をめぐる日韓の対立に「決着」がつきそうである。韓国の尹錫悦政権が、韓国の大法院が日本企業に命じた賠償金を韓国側で肩代わりする一方、日本側では、植民地支配への「反省とおわび」を盛り込んだ歴代内閣の歴史認識の継承を確認するという条件での決着である。これは日本にとっては都合のいいことなので、岸田政権としては異存はないだろう。「反省とおわび」は、植民地支配に対する包括的な声明であって、徴用工問題について直接述べたものではない。日本としては、従来の立場を確認しただけで、新たなアクションをおこしたことにはならない。だからこの「政治決着」は、韓国側の一方的な撤退であって、日本としてはなんらの痛みも伴わない。

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「悪夢(Le Cauchemar)」と題されたこの石版画は、ラマルティーヌとルイ・フィリップの関係を皮肉ったもの。ラマルティーヌはフランス革命の英雄として庶民に人気があった。1930年の七月革命でも指導的な役割を果たした。だが、革命が成功するや、ルイ・フィリップがかれを利用しにかかった。かれを抱きこむことで、自分の権力を強化しようと考えたのだ。

岸田政権によって日本は敵基地攻撃能力を持つことができるようになり、また、軍事費の倍増にも見通しがついた。あとは仮想敵国に対してその攻撃能力を発揮するだけの段取りにいたったわけだ。それには人的な資源が必要になる。岸田政権は目下、自衛隊への志願兵をもって戦うことを想定しているようであるが、しかし、(仮想ではなく)現実に中国を敵として戦うには、志願兵だけでは間に合わないだろう。対中戦争を有効に戦うには、なんとしても徴兵制の実現が不可欠である。

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深田晃司の2013年の映画「ほとりの朔子」は、思春期後期の女子を描いた作品。思春期の女子をモチーフにした映画としては、内藤洋子主演の1967年の作品「育ちざかり」が思い浮かぶ。「育ちざかり」は鎌倉の海を背景にして女子の初恋を描いたものだったが、この「ほとりの朔子」は、やはり海を背景にして女子の青春を描く。恋情もあるが、それにこだわらない。この年頃の女子が抱えている悩みとか疑問とか、成長にともなうさまざまな事柄が幅広く取り上げられ、描かれている。

浄土とは何かについて、大拙はまず「無量寿経」によりながら、その概要について示したのであるが、更に曇鸞の「浄土論註」によりながら詳細に説明する。「浄土系思想論」の第三の小論「浄土観続稿」がそれである。

共感覚(共通感覚)を哲学上の問題として取り上げたのはアリストテレスだ。アリストテレスは、世上に五感と称されるような個別の感覚を超えて、それらを統合するような感覚があると主張し、それを共感覚(共通感覚)と名付けた。共感覚は、ある対象についての原初的な感覚であって、そこでは視覚的、聴覚的、触覚的等々の要素が区分されずに混沌とした全体の印象として受け取られる。その共感覚を基礎として、それを分節することで、個別の感覚、たとえば視覚とか聴覚とか触覚が現れると考えた。アリストテレスはまた、共感覚を第六感のようなものとして位置づけ、その第六感が常識の基礎となるともいった。思想史のその後の流れの中では、常識の基礎としての第六感のほうがより強い注目をあつめ、本来の感覚としての共感覚は軽視されるようになった。それを感覚本来の問題として取り上げなおしたのはメルロ=ポンティである。

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1930年の七月革命は、大衆の蜂起によって成功したのだったが、革命がもたらしたのはルイ・フィリップによる王政でり、かれを担いだブルジョワジーの勝利であった。その一方、革命を成功させた大衆は、見向きもされなかった。「七月の英雄(Un Héros de Juillet)」と題したこの版画は、そうした無視された大衆を象徴する人物像である。

ゴーゴリの短編小説「鼻」は、ある種の変身物語である。変身の話はヨーロッパではそれなりの伝統があるようで、それを踏まえたうえで、カフカも「変身」を書いた。カフカの小説の主人公は、人間がごきぶりに変身するのであるが、これはやはり、人間のナルシスが水仙に変身したというオヴィディウスの話にヒントを得たものであろう。ゴーゴリが「鼻」を書いたのはカフカより百年も前のことで、カフカのように強烈な不条理意識はないともいえるが、しかし鼻のない人間というのは、やはり不条理な事態といえなくもない。しかも、その失われた鼻がまるで自立した人間のようにふるまうのだ。だからこの小説を不条理文学の先駆けとして読むこともできるであろう。

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2006年のアメリカ映画「不都合な真実(An Inconvenient Truth デイヴィス・グッゲンハイム監督)」は、地球温暖化防止を訴えるアル・ゴアの活動を描いたドキュメンタリー作品。アル・ゴアが、世界各地を飛び歩いて行っているキャンペーン講演の様子を映し出しながら、アル・ゴア本人の私生活も懐古的に語られる。

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1830年代のフランスは、ジャーナリズムが勃興した時代だった。新聞雑誌があいついで発行され、その紙面を石版画が埋めた。写真技術がまだなかった当時にあって、大衆向けの表現手段としては、石版画がもっとも便利だったのである。この時代、多くの石版画家が活躍したが、ドーミエはその中心的な人物であった。

2022年に生まれた子どもの数は79万人台で、統計上はじめて80万人を割り込んだという。これは外国人を含んだ数で、日本人だけだと、76万人台になる可能性があるそうだ。40年前の出生数が約151万人だったので、わずかの間にほぼ半減したことになる。急速に縮んでいるのである。

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2016年のアメリカ映画「私はあなたの二グロではない(I Am Not Your Negro)」は、アメリカにおける黒人への人種差別をテーマにしたドキュメンタリー映画である。黒人作家ジェームズ・ボールドウィンの未完成原稿を下敷きにしている。そのボールドウィン自身が画面に登場して、アメリカの人種差別のおぞましさを告発する。黒人だけではなく、原住民も差別されている。その原住民を悪魔のような存在に仕立て上げて、かれらを虐殺することを正当化するのが、アメリカ社会の真の姿だ。その真実をジョン・ウェインが象徴している。ジョン・ウェインは、西部劇映画の中でインディアン殺しを堪能した悪党というわけである。

武士道という言葉を流行らせたのは新渡戸稲造だが、それ以前に「葉隠」の著者が武士道という言葉を使っていた。「葉隠」の著者山本常朝は佐賀鍋島藩の藩士だった。かれが「葉隠」を口述筆記させたのは元禄時代直後のことだ。その時代には、武士はすでに闘いに無縁な存在だった。武士が戦いに無縁な存在になった時代にはじめて武士道という言葉が前面に出てきたわけである。それ以前には、武芸という言葉はあったが、武士道とか武道という言葉は使わなかった。荻生徂徠は、「文道武道と申事は無之候」と書いた(太平策)。

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